宮城県高校演劇の歴史

                阿 部 順 夫

 

@ 組織的活動の嚆矢        はじまりは 昭和24年
A 時代の荒波を受けて、分裂、脱退、閉塞
      仙台市高校演劇連盟として再発足
昭和34年
B 全国的な視野と連携の広がりを求めて    
      宮城県高等学校演劇協議会の発足
昭和37年
C 第一回〜第三回県演劇コンクール 昭和38〜40年
D さまざまな動きを内蔵して 昭和41年
E 協議会の再組織化
      全県組織の結成に向けて
昭和42年
F 仙台市社会教育課が全面援助
      仙台市高校演劇祭の開催
昭和43年
G 協議会の再組織化が合同公演の大成功を
      盛りあがる協議会活動
昭和44年
H 初めての独立した東北大会を仙台で  
I 三千人の観客を集める
      騒然とした時代の中で   
昭和45〜46年
J 充実期                   昭和47〜49年
新しい波・・・・全国高校総合文化祭の開催から、
官城の高文連結成まての長い道のり
 

                      

@ 組織的活動の嚆矢          

                               ・・・・・・はじまりは、 昭和24年

 宮城県高校演劇を組織的活動の流れとしてとらえたとき、その嚆矢というべきは、仙台市における市内高校演劇研究会の発足であろう。「昭和24年の秋、当時一高の遠藤先生(後に東北大教授)の呼び掛けで、宮農高疋田先生、それに仙商の私(平島)と3人で自校の演劇部を持ちより、市内高校演劇研究会と命名し、当時一高校長であった故宮城音五郎先生を会長に仰ぎ発足した。」(平島正広「市内高校演劇連盟の思い出」より)という。

 「ちょうどその頃、新築されたばかりの三島学園講堂をお借りし、三校持ちよりの公演をしたのが研究会第一回の初舞台。その校お互いに持ちより、会の目的を遂行するため、男子校だけの研究会に、広く女子校の参加を要請することになり、さっそく一女高、二女後も三高、三女高、その他の女子校を歩き回り、校長先生に研究会の内容をご説明申し上げ、参加をお願いしたものでした。しかし当時は男子生と女子生が一緒に芝居するなどき不見識も甚だしいと思われた頃で、どの女子高に行っても、君たちの研究会に絶対参加させられないと、きつくことわられたものでした。その上、私たちがあたかも、危険思想の持ち主であるかのように誤解されたことも再三あったのでした。
  
 しかし・・・・・ようやく研究会の目的が理解され始め、仙商の姉妹校であった女子商が欣然、女子校のトップを切って参加、時を同じくして東北大農学部内にあった一女高の樋口校長先生が参加を快く許可されたのでした。 (同資料より) 

 「その後、毎年、春秋2回、東北大片平町講堂で発表会を開催し、ついで県民会館、労働会館、公会堂と公演場所を変えながら、発表会を持ち続けました。参加校も年々増え、市内高校中一六校も参加し・・・・春秋とも二日連続上演するという盛況ぶりでした。(同前出資料)

 公演は第一六回まで続く。しかし生徒間のトラブルなども生じ、脱退が相次ぐようになる。

A 時代の荒波を受けて、分裂、脱退、閉塞

          ・・・・・・仙台市高校演劇連盟として再発足 昭和34年

 昭和34年「研究会のマンネリ化打破のため、発展的に解消、『市内高校演劇連盟』として再発足」(20周年記念公演パンフレットより)する。残ったのは5校(宮農、仙商、仙高、三女、仙女高)であった。一高、ニ高、一女高らは既に三校合同公演なるものを成立させていた。60年安保に向けて時代は変わっていった。高校では、受験競争激化の中で、学校間格差が公然と語られ、公高私低、受験優先の価値観とナンバースクールのエリート意識が連盟の生徒間に亀裂を作っていた。演劇の持つ柔軟性、多面性、総合性、を生かしきれず、仙台という狭い世界に閉じ込められて発展性を失った活動は、閉塞による歪みから、爆発寸前に至っていたのである。
B 全国的な視野と連携の広がりを求めて

      ・・・・・・宮城県高等学校演劇協議会の発足  昭和37年

 昭和30年5月1日、東京で、全国高等学校演劇協議会が結成された。全国的な視野で演劇活動が考えられるということは、画期的な希望をもたらすことであった。全国とのつながりを求めて動き出したのは、仙工の松木達牙先生だった。仙工河童座の人形劇を指導していた彼は、人形劇団プークを通じて全国協議会を知り、全国につながる県組織を作ろうと呼びかけた。全国協議会の規約によれば、県単位の組織でなければ、加盟はできなかったからである。しかし、ことは簡単には進まなかった。仙台という枠にこだわり、伝統にこだわる二つの組織がすでにある。活動が全国的に連携することに危惧の念を持つ人々も多くいた。そのうえで新しい組織を作るには、多くのエネルギーと天の時とを必要としたのである。

 昭和37年1月21日、宮城県高等学校演劇協議会が発足した。仙工、仙女商、の市立二校と尚絅、育英、電子、聖和の私立四校が加盟した。 この結果、在仙の組織は奇しくも学校種別にグループを作ったかの観があるが、故なしとしない。ともあれ、県の統一組織をめざす小さな船が進水した。初代会長は育英の加藤昭校長、副会長(事務局長)は松木先生だった。持ちより公演を行い、中央から講師を迎えて講習会を開き、全国大会(指導者講習会)に出席し、他県の発表会も見に行った。生徒にとっても顧問にとっても、それがいかに新鮮な刺激であったかは、当時のパンフレット等に多く見ることができる。

 昭和38年8月、全国協議会は各地区のコンクールでの優秀作品を集めて再上演、初めてコンクール制を採用した。最優秀賞には文部大臣賞が贈られ、名実ともに全国大会となったのである。これを機に宮城県協議会は県コンクールを実施する。宮城県高校演劇コンクールのはじまりである。松木先生はこう記している。

 「スポーツには高体連があり、各校とも交流が盛んで自分たちの刺激にもなり、反省もできますが、演劇にはそれがない。本県には他県にあるような高校演劇コンクールがありません・・・・・協議会は発足以来全国協議会に加盟し、中央に集う各地の高校演劇を見ながら反省してまいりました。・・・・・今年の全国協議会は初めてコンクール制をとりました・・・・・勿論、ここまでくるためにいろいろコンクールの是非が論じられました・・・・・各校間の融和が崩れるのではないか、作品がコンクールのための劇作りに変形するのではないか等、心配され討論されました。しかし、障害はあっても、高校演劇をよりよく育てるためにはコンクールもしなければならない、という結論が生まれました。私達は協議会の発足当時のモットーである『演劇を通じてよりよい人間作りをしよう。仲間作りをしよう。』という気持ちは毛頭忘れません。その上で中央に遅れないよりよい舞台を謙虚な気持ちで作り上げてゆくために、何度も話し合い、ここに第一回の宮城県高等学校演劇コンクールを開催することに決めました。また全国から審査員を派遣していただきました。」(第一回コンクールパンフレットより) 
         

C 第一回〜第三回県演劇コンクール 昭和38〜40年

 昭和38年11月9日(土)仙台市公会堂で行われた第一回コンクールには六校が参加。審査員には全国協議会より派遣された佐伯俊介 (筆名佐々俊之)氏のほか、地元から佐久間謙二郎氏(作家)、長谷川博氏(NHK劇団)、小川金次郎氏(河北新報文芸部長)など、4名があたられた。河北新報社より優勝杯が贈られ、最初の受賞は尚絅高校「娘たち」(長谷川行勇)であった。

 翌39年の第二回コンクールは、12月5、6日の二日間行われ、六校の参加で、育英高校「同士の人々(山本有三)が最優秀となった。この年、松木先生は古川女子高に転勤し、指導の中心を失ったかたちになった。

 昭和40年11月第三回コンクールが行われ、9校の参加で、初参加の仙台三高の「轍」が最優秀、三島の「伽羅先代萩」が特別賞を受賞した。この年、会長は宇野量介東工大付属電子高校長であり、電子高顧問阿部清孝先生が事務局長であったが、実際の活動のリーダーシップは生徒の運営委員長鈴木博君がとっており、公文書も生徒が作る有様であった。これが自主性だと思われていたのである。だから、全国協議会の審査員に全国大会のことを知らされても、実際の交渉にあたれる人がいなかったのである。

D さまざまな動きを内蔵して      昭和41年

 41年4月の総会(生徒中心)で、生徒運営委員長に三浦隆君(仙工)が選出され、副会長(事務局長)に阿部順夫、会長に星義雄仙工校長が就任を要請された。活動の中心が仙工に移ったのである。同年7月、念願の第一回の合同公演「夕鶴」を実現する。顧問会の立場が組織上あいまいで、バックアップは不充分であったが、生徒たちには大きな喜びであった。

 8月に行われた東京での全国大会は阿部が初参加、大きな衝撃を受ける。「青山日本青年館ホールの座席にうずくまって、驚きに近い感動の為に私は動けなくなっていた。舞台では、セーラー服の高校生が立って、冬休みに自分の周囲に起こった出来事について語っている。芝居はいわば彼女の研究発表だった。大坂の下町で細々と生活を支える内職の仕事が、実はベトナムで使われる毒ガスだったことがわかる。彼女の純粋な正義感と現実生活とが引き起こす、憤りや悲しみ、怒りや苦しみといったものが熱いエネルギーとなって私を圧倒した。プロや大人の芝居では得られない新鮮な感動だった。かといって学芸会や文化祭の面映い未熟さもなかった。けっしてうまくはないが、紛れもない高校生の諸君が、『実像』で迫っているのだった。(第7回合同公演パンフ)

 これを機に全国との連絡が密になり、全国大会への東北代表が話題になる。11月に第4回県コンクールが行われ、初出場の名取白百合、仙女高、など10校が参加した。最優秀は仙工「木龍うるし」で、翌年いわき市で開かれる第13回全国高校演劇コンクールに代表出場することになった。宮城県代表との肩書きであった。東北代表選考会を開けぬための苦肉の策であった。

E 協議会の再組織化

            ・・・・全県組織の結成に向けて 昭和42年

 翌42年3月、星会長は定年退職し、五島幸雄氏が後任校長として着任した。五島校長は会長就任要請を受けず、むしろ協議会が校長会で正式に認知されていない現状を憂慮、正式な手続きを踏んでの再組織を提案してきた。それを受けて事務局長の阿部は、42年7月、県下80校の演劇部の顧問にアンケートを実施し、結果に応じて顧問会議の開催を呼びかけた。回答を寄せたのは20校、うち17校が全県組織の結成に賛成、反対1、無答2、であった。10月14日の顧問会議には、14校が出席(18校が欠席委任)した。熱っぽい話し合いがなされた。県組織の必要性を確認するのみの議論で、基本的な反対意見はまったく出なかった。阿部が中心となって推進して行くことを決定し、44年5月ようやく五島校長を会長に推戴して正式な組織として再出発したのである。この間2年間、会長はなく、事務局長が会長代理として会の運営にあたった。

 会長空位の2年間、それは協議会活動の曲がり角ともいうべき多忙の日々て゜あった。そのうち昭和42年度は、生徒の企画運営になる送別会、新入生歓迎会は例年どおりで、第2回合同公演、武者小路実篤作「人間万歳」を6月に実施した。7月にメイクアップ講習会を開き、8月にはいわき市での全国大会に出場参加した。顧問10名、生徒約30名が参加、大きな刺激を受けて帰った。 

 「東北は、いま、全国で最も遅れている! ・・・・・宮城の演劇活動において、我々がいま、もっともやらなければならないことは、早く全県の組織を作り上げ、県民に我々の活動を認めてもらうことである。・・・・・・我々はこの三日間、このことが我々の活動にとっていかに大きな問題であるかを痛感した。」 (生徒運営委員会編「第一回全国高校演劇指導者講習会報告」より)

 42年11月の第5回コンクールには、13校が参加。市外の公立高校として矢本高校が、私立高校からウルスラ、宮城、が加わった。最優秀には宮城学院の「静かなる朝」が選ばれたが、8月の全国大会での地区協議会で福島県に東北大会の開催が要望されたにかかわらず、実現できず、結局話し合いの結果、宮城が譲って、福島代表が全国へ行くことになった。   
           

F 仙台市社会教育課が全面援助

         ・・・・・仙台市高校演劇祭の開催   昭和43年

 43年に入り、多忙を極めた仙工事務局を東北高に移し、斎藤信雄先生にバトンタッチした。8月の全国大会(東京・日本青年館)には、前年の経験で刺激を受けた生徒運営委員会が率先して参加を呼びかけ、ニ十数名の代表団を派遣した。秋の第六回コンクールは、仙台市社会教育課が財政と運営を全面的に援助、市中央公民館が主管となって第一回仙台市高校演劇祭を開催した。仙台市教委におられた松木先生のはからいによるものだった。

 「年ごとに参加高が増えて第五回は13校になった。しかしなんらの資金援助もなく、入場券の売りさばきを含む大会運営は生徒に大きな負担となり、劇上演と大会運営をかねる学校は劇上演を犠牲にすることになる。大会は行き詰まった。そこに救いの綱を投げかけたのは、仙台市中央公民館だった。大会経費の援助をしてくれたばかりか、運営も肩代わりしてくれた。全国的に珍しいケースであった。以来、協議会は内容と組織の充実に努め、ニ十数校が参加して、四日間の大会を持つまでになった。( 『宮城の高校演劇』阿部順夫・河北新報昭和57.11.27)

 最優秀には仙工「ふきだまり」が選ばれ、福島での初の東北大会に進むはずだったが、大会日程が県大会と重複していて出場できず、涙を飲んだ。福島にはまだ単独で東北大会を開く力がなく、県大会に他県代表を一緒に出場させるという苦し紛れの方法た゜ったため、日程の調整がつけられなかったのである。 
              

G 協議会の再組織化が合同公演の大成功を

             ・・・盛りあがる協議会活動  昭和44年

 翌44年5月協議会は組織として再出発した。顧問会と生徒運営委員会との関係を明確にし、教師と事務局の指導と責任体制をとる中で、最大限の自主性が発揮て゜きるよう工夫した。生徒の全体集会の場であった総会は最高議決機関として、顧問と生徒による議決の場となった。顧問会は生徒運営委員会三役と多く協議を持ち、両者の合意の上での運営となった。

 新組織の喜びをもとに、合同公演が企画された。脚本選定の段階から顧問会が係わって責任体制を作った。名作や大作をお祭りさわぎで作るのではなく、仙台ではまだ知られていない高校演劇一幕物の代表作を上演紹介しようというもので、全国大会などで実際に上演され高い舞台成果をあげているものを選んだ。この企画は画期的な成功を収め、その後の協議会活動に大きな力となった。ニ作品の二回上演、抽象と具象のコンビネーション、練習体制、入場券販売ルートの確立など、以後の合同公演の基礎を作ったといえる。

 本山節弥作「オホーツクのわらすっこ」は昭和41年全国大会の最優秀作品で、浜の臭いに満ちたリアリズムの舞台て゜ある。小出和典作「着飾れないシンデレラ」は、同じ41年の全国大会で九州代表により上演されたバタくさい都会風の抽象劇。ニ作ともに顧問の創作になる話題をさらった作品だった。演目の新鮮な魅力もあってか、多くの観客がつめかけ、1500の座席に立ち見が出るくらいの人気であった。三千人近い観客を動員し、10万円の黒字を得たのも初めての経験だった。この益金をもとに8月札幌で行われた全国大会に代表を派遣。60数名が参加した。海を越えて行われる初の全国大会で、参加する者も、抑える者も、格別の思いに満たされ、友情に溢れた感動的な集いであった。
        

H 初めての独立した東北大会を仙台で                      

 11月に行われた第二回仙台市高校演劇祭( 第7回コンクール )は13校参加。仙工の創作劇「面(マスク)」が最優秀となった。その1ヶ月後、東北大会が仙台で開かれた。前年、不本意な形で東北大会に参加できなかった宮城県協議会としては、なんとしても独立した東北コンクールを成功させる必要があった。

 「宮城県大会の二十日後、全くの無一文から生まれた東北大会であった。収入源は5万の広告代と1枚100円の入場券。それを七校の部員が売りさばいた。結果は見えていた。時間不足と準備不足と、それに三校が上演参加するということで、観客動員に手を回す余裕はなかったのだから・・・・・売上420枚で10万の赤字となった。大会終了後、会議を開いて協議。結局200名の生徒と顧問のカンパで穴埋めをした。独立第一回の苦しい船出であった。しかし私たち裏方の苦労は三日間の大会で十二分に報われていた。「しんしゃく源氏」の姫が突然ミニスカートに着替えて現れる磐城女子高校の舞台の鮮やかさ。青森代表が、大会唯一の創作仙台工業の「面(マスク)」について汽車時間の迫るのを気にしながら熱心に話してくれたこと。出場校の生徒たちが審査員の宿を訪れて、熱心に質問していたこと。そして何よりも、近くにありながら見知らぬ友だった東北の仲間たちが、初めて自分の作物を見せ合い、自分達の手で代表を選んだという喜びに満たされていたのであった。

 私は今でもふと思う。あのときの10万円のカンパが、なぜすぐ集まったのだろうかと・・・・・思うに、それは「よろこび」に対する喜捨だったのだろう。春以来、合同公演、札幌の全国大会、県コンクールと燃え続けてきた私たちは、その総決算としての東北大会から受けた「感動」に、ためらいもなくお金を差し出したのではなかったろうか。」
     ( 「東北大会のはじめのころ」阿部順夫・第十回東北大会パンフレットより )                              

I三千人の観客を集める

          ・・・・騒然とした空気の中で  昭和45〜46

 昭和45年度は早くから合同公演への期待が高まっていた。前年の赤字の挽回をしたいということと、札幌大会での優秀作品を仙台に早く紹介したいという思いであった。「海の底の服」は原子力船による海洋汚染を鋭く風刺した時事問題としてのリアルさがあり、「学校」は形骸化した学校教育を風刺した抽象的な舞台として高校演劇の代表作といえる作品。時は70年安保にゆれる時代のまっただなかにあった。前年の合同公演で自信を深めた生徒たちは、学んだノウハウを生かして三千人の観客、12万円の益金を得、8月の岐阜市での全国大会に63名の代表を送り込んだのである。

 11月の第三回高校演劇祭には17校が参加。創立20年を経た仙台市高校演劇連盟は演劇協議会に吸収されてその使命を終えた。安保問題を扱った仙工の「勉強の邪魔する奴は誰だ!」が最優秀となり、3年連続の優勝を成し遂げた。12月に青森で行われた第三回東北コンクールは八戸北高「じんばい」が優勝した。作者小寺氏の登場である。

 昭和46年は、4月に会長が千田宮内仙工校長に替り、秋口、仙台市公会堂が工事のため解体され、使用不能になった6月の第5回合同公演「食欲のないお話」「傷つき合う者達」は公会堂最後の舞台として、学園紛争の続く状況下にいっそう多くの観客を集めた。このエネルギーは演劇コンクールにも引き継がれ、安保に揺れる騒然たる時代の空気の中で、生徒達は長町公民館の体育館に照明器具を持ち寄って、窓に黒い紙を貼り、自分達で会場作りをして、異常なほどの熱気に満ちた大会を作り上げた。在仙の大学演劇部はほとんど壊滅し、高校も東京では活動停止の学校が多かったのである。

上演作品も時代を反映して挑戦的な舞台作りが目立った。最優秀に選ばれた名取高の「魔女宣言」は、その代表作と言えよう。11月、福島市で開かれた第4回東北コンクールでは八戸北高の「かげの砦」が最優秀となり、翌47年8月の全国大会に出場して圧倒的な評価で優勝、東北の名を高からしめた。                    

J充実期           昭和47〜49年

 昭和47年の第5回仙台市高校演劇際(県コンクール)は再び長町公民館の体育館を使って行われた。初出場の田尻高を含めた17校が参加した。最優秀は聖ウルスラ「ある群れ」が初受賞した。東北大会は3年ぶりに宮城県(仙台)で翌48年の一月開催された。春の合同公演が出来なかったことと、観客動員を確実にするために、大会の最初と最後にモデル上演として福田薫作「うちのナース達」を二回上演した。コンクールでは弘前高「コモンセンス」が優勝、同年8月の大阪豊中市での全国大会に出場したが、生徒創作ということで話題をさらい、みごとに第一位の栄誉に輝いた。

 昭和48年の第6回仙台市高校演劇祭は、新装なった市民会館小ホールで行われた。これ以後コンクール会場はこの小ホールに定着したかたちで推移する。参加校は県内各地から集まって二十数校となり、期間も6日間を要するようになり、主催の仙台市中央公民館にとっても大掛かりな行事となる。実質的な県コンクールとしての地位は揺るがぬものとなっていた。

 昭和49年6月、満を持して合同公演が行われた。演目は前年の全国大会で最優秀をとった話題作「さすらい狂騒曲」と地区大会の話題作「その一枚はすでにぽろぽろ」。会場は県民会館大ホール。東北大会で使って自信がついたこともあり、2日間3回公演で三千人以上の観客を動員できる体制ができあがっていた。収益金18万円。これで夏の全国大会に代表を派遣。そこでの経験が翌年の演目につながっていく。このかたちは第十回まで続いた。合同公演と県、東北、全国コンクールが絶えず新しい刺激を与えてくれる。これに総合研修会が加えられていった。充実期である。
     

終章・新しい波

         ・・・・全国高校総合文化祭の開催から、
              官城の高文連結成まての長い道のり

  一方、全国の事情は変わりつつあった。昭和47年から高校演劇全国大会に補助金を出し始めていた文化庁は.52年に全国高校総合文化祭を開催、演劇コンクールはその中心となった。それに対応して各県でも県総合文化祭が開かれることとなった。官城県の社会教育課もそれを演劇協議会に求め、さっそく52年11月から独立のコンクールを第15回宮城県高校演劇コンクールとして実施することとなった。

 これによって、翌年から四つの地区大会が生まれ(これには財政的補助なし)、仙台市高校演劇祭は地区予選の一つになった。それでも中央公民館は一貫して全面的援助を惜しまず、財政当局と激しいやりとりをしながら予算を確保して、57年までお世話下さり、その後は市民文化事業囲の助成に道を閉いてくださったのである。その中心担当者だった岩井千代さんをはじめとする中央公民館スタッフの方々のご労苦を忘れることはできない。

 各県での変化は県高校文化連盟の結成へ向かっていた。数年のうちに大方の県に高文連が結成され、県単位の総合文祭が華やかに開催されるようになった。昭和57年には、東北地方では官城以外の県すべてに高文連が出来上がっていた。毎年全国大会に参加し、各地の組織と連携を深めてきた私たちは、この大きな流れを横目に見つつじりじりする思いでこの十数年を過ごしてきたのであった。私達は機会あるごとに声をあげ、各方面から同じ声が聞こえてきたとき、満を持して準備活動に入ったのであった。

 平成元年の宮城県高文連の結成が官城の高校文化活動における一大エポックであり新しい出発点であることに間違いはない。しかし、私達は、その先を見ることができる。すでに設立十数年を経て、次の段階に進んでいる他県の状況を見据えながら、私達にとってふさわしい選択ができる恵みにあずかっているのである。大いに期待したいと思う。

               <完>     ご感想・ご意見、お待ちしております。

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