第6部 平成7年度 岩手県大会 岩手県立一関第二高校 『コンクリート・フーガ』 紗乃みなみ/作 |
〈あらすじ〉 幕が開くと、階段がついている大きな台が中央に置いてある。その階段に、双子の二人の女の子「いくみ」と「あゆみ」 が座ってシャボン玉を吹いている。そこへ、三人の男「アレグロ」「モデラ‐ト」「アンダンテ」が登場する。楽しい会話や言葉 遊びをしながら、二人の女の子の所にメトロノームの訪問販売にやってくる。そして、「このメトロノ‐ムに合わせることで、 現代の社会で立派に生きていける」と言って、そのメトロノームを置いていく。二人は、メトロノ‐ムに合わせて踊るが、あゆ みはだんだん遅れていく。その様子を三人の男が陰から見ている。 一週間後、三人がメトロノ‐ムを取りに二人のところにやってくると、いくみはメトロノ‐ムに合わせて調子艮く生活している が、あゆみはメトロノームのテンポについてゆけず苦しそうな息づかいになっている。アンダンテがメトロノ‐ムを止めると、あ ゆみが倒れる。「あゆみは不合格」と言って、三人はタンカであゆみを違れていく。いくみはそれを追いかける。 飛行機の音で明るくなると、修学旅行の団体(コロス)が階段に座っている。そこへ、いくみが登場し、団体の中にあゆみ をみつけ一緒に行動する。ガヤガヤしていた団体が、ガイドに案内されながら世界の各地を次々に見て歩く。あゆみはしだ いに遅れていく。世界各地を団体でどんどん進んでいくうちに、あゆみはとりのこされ、いくみはあゆみの姿を見失ってしま う。取り残されたあゆみはしゃぼん王を吹いている。 いくみはあゆみを捜しながら、走っている人達にたずねてまわる。みんなドンドン走っていると、ガイドが急に倒れ死んでし まう。すると三人の男が登場し、ガイドをタンカで運んで行く。「なぜ倒れるまで走らなきやいけないの?」とたずねるいくみに 対して、アレグロは「俺たちが死休を片付けるのが義務なら、君達は走るのが義務なんだ」と答える。走ることが苦しくなった いくみに、しゃぼん玉をふいているあゆみが声をかける。その声に誘われ、いくみはあゆみの所へたどりつく。すると、走って いたコロス違が二人を引き離す。三人の男達も登場しあゆみを違れて行く。ふたつに割れたコンクリ‐トに挟まれ、あゆみは 死んでしまう。 しゃぼん玉が舞台いっぱいとんでいる舞台で、いくみのモノローグ。 |
〈講評メモから〉 |
★脚本のメッセージ ★装置がものをいう ★走ることの意味と走らされていることの不気味さ ★ノリがほしい |
「脚本のメッセージ」 平成七年五月、この学校がある一関地区の演劇講習会で、脚本分析や解釈について話をしてほしいと頼まれました。その ・題名の「コンクリjト・フ‐ガ」とは、なにを意味しているのか。 |
※「装置がものをいう」 幕が開いたとき、高さ2mくらいの大きな階段が置いてありました。大勢の人が乗っても大丈夫そうな(後で大勢乗る場面があり ましたが、本当に大丈夫でした)存在感のある台でした。その台が、場面によって音もなく動くのです。ふたつに別れて間に道がで きたり、回転をしたり、最後の場面では、あゆみがその台に挟まれて死ぬのです。もちろんコロスたちが動かしているわけですが、 ゆっくりと重々しく動いている様子を見ていると「装置がものをいう」ように感じられるのです。キャストがセリフで言うよりも、迫力が ありザワッとするものが舞台から客席に伝わってきました。 装置には下にキャスターがついているわけですが、そのキャスターが見えないようにスカート(キャスターを隠す布)もついていまし た。このように、手抜きをしないでしっかり作ってある装置は、舞台のひとつの存在感あるものとして、安心して見ていることができ ました。 ただ、今回の劇でちょっと残念だったのは、暗転が六回もあったことです。もちろん暗転の方がいい場合もあるわけですが、場面 によっては「照明を少し暗めにした中でコロスが台をゆっくり動かし、人物が位置についたところで明るくなる」というような方法を考え てほしかったと思います。そのような転換を見ながら観客は次の場面を想像し、イメ‐ジを膨らませながら期待する気持で舞台につい ていくことができると思います。 場面の転換はお休みではありません。休符も音楽の一部であるように、場面転換も、次の場面へ気持ち高め期待させる時間にな るように、しっかり計算して練習してほしいと思います。 |
※「走ることの意味と、走らせられることの不気味さ」 この劇では「走る」ということが重要な意味を持っています。ただ走れぱいいというものではありません。なにを伝えるために「走る」 のか、そのためにはどう「走る」のか。舞台の上を本気で全力疾走したのでは、上手から下手まで三秒もかかりません。そのような 走り方をしても、今回の「コンクリート・フーガ」の走りにはならないと思います。では、どういう走り方をすれぱいいのでしょうか。今回 の舞台の講評メモに「走ることの意味と走らせられることの不気味さをもっと出してほしかった」と書きました。 「コンクリートを思わせる変形階段がふたつ」という装置にしても、今の世の中のなにかを象徴しているわけです。思いつくまま連想 すると「ビル、建物、都会、大きい、冷たい、重い、四角い、作られたもの、壁」という言葉が出てきます。その装置が、走れなくなった 「あゆみ」を挟んで殺してしまうわけです。ということから、この劇の世界の中での生活を「走る」という行動で表していることになるの で、ただ走ればいいというものではないことになります。日常生活での「走る」ということは、目的に向かって早く到達するために「走る」 のですが、この劇の世界ではそうでもないようです。次のようなセリフがあります。 いくみ ねえねえ、私たちどこへ行くんだろう。 B 地図に書いてあるんじやない? いくみ この地図、どこまで行くの? B ………わかんなーい。 (途中∵省略) アレグロ 十五時の地図が出だぞーっ! コロス (地図を奪い合う。混乱するが、誰かがこっちだ‐と叫ぷと全員そっちにいっていってしまう) いくみ ねえねえねえ、これが地図?1本の道しか書いてないよ。 A この道しかねえんだよ。この道を進めば正しいんだよ。 地図には道があるだけで、目的地がありません。つまり、「走る」ために「走る」。そして、「走る道」は示されているので、「その道を 走る」ということになると考えられます。したがって、この劇のなかでの「走る」ということは、次のようなことを含んでいると思います。 ・「走ろう」という「自分の意思」で走りだしていない。 ・最初、楽しいと感じている「走ること」が、苦痛に変わっていく。 ・最初から走れない人も「走らせられる」。 ・ついて行けないと脱落(死んで)してしまう。 このようなことに気づけぱ、演出の仕方でいろいろな走り方ができるのではないでしょうか。 脚本にはなくても、修学旅行の場面では、合図で全員一斉に走り出す様子を示すために「ガイドの笛を合図に走り出す」とか、走 り方を統一させられる様子を表すために「膝を上に上げるような走り方で走る」など、いろいろ考えられます。その走り方の訓練の場 面を入れてもいいと思います。 脚本に書かれていることをそのまま「なぞる」のではなく、脚本の内容を強烈に表現するためには、「脚本をこえた演出」が必要に なるのではないでしょうか。 |
※「ノリがほしい」 今回の舞台は、装置や衣装、照明や音響効果、キャストのバランスや人物配置など、どれをとっても「わかってやっている」というこ とが感じられました。脚本のもっているメッセージが舞台によく表れていたと思います。そのような意味では、あるレベルに達した舞台 になっていましたが、私のメモには「流れにはひきこまれていくが、つきぬけてこない」「ノリがほしい」とも書かれています。「もったい ないなあ」と感じだからでした。 どのような表現があてはまるのか分かりませんが「脚本をしっかり理解したことを、丁寧に舞台にのせた」という感じに受け取れたの です。舞台でやっていることはわかるけれども、こちらの八ートにもうひとつ響いてこないのです。 例えぱ、ある楽団がマンボを演奏したとします。ひとつひとつの楽器が、きれいな音を丁寧に出しただけではマンボになりません。マ ンボ独特のテンポがあり、ノリがあってはじめて訴える力を持つと思うのです。 脚本にも、その脚本のもつ力を引き出すための、ちょうど良いテンポというものかあると思います。それを捜しだし、ゆっくりしたところ や、スピ‐ドにのせるところという、いわゆる緩急を考えた演出をしてほしいと感じました。 演劇という舞台を作る場合、始めの頃は台詞や動きの「形作り」の期間が必要です。例えるなら、形とは卵の殻のようなものと私は 考えています。その殻の中で、人物を育てどんどん成長させていって、ある時期がきたなら、その殻を破って外に出してやることが必 要と考えています。 そんなとき、私は練習前にこう言います。「今日の練習は、声が聞えなくていい。動きも今までと違ってもいい。その瞬間に感じたこと を、とにかくおもいっきり表現しよう。登場人物の八ートに魂を入れよう」 ひとりのキャストが殻を破ると、それに合わせて他のキャストもどんどん殻を破ってくれるようです。「はじける」「ノル」ということが、分 かってくれるようです。 |
〈 私の感想 〉 舞台中央に置かただ台が、この劇で重要な役割を持っていますが、とてもよく作られていました。キャスターをつけて動けるようにし てあり、そのキャスタ‐を隠すスカ‐トもきちんと作ってあって、動きもスム‐ズで安心して見ることができました。 今回の劇の装置といえぱこの階段だけでしたが、左右ふたつに分かれて間に道を作ったり、回転をしたり、最後にはこの装置に挟 まれてひとりの女の子が死んでしまうというストーリーになっていましたが、その場面の持つ恐怖感が、この装置によってうまく表現さ れていたと思います。 双子の姉妹のアンサンブルもよく、シャボン玉の美しさとともにきれいな幕開けになっていました。 三人の男たちの登場によってこの劇は展開していきます。一見楽しそうに見えるこの三人が実は恐い側面を持っているのですが、こ の三人の表現をもっと強く出してもよかったのではないでしょうか。流れは分かるのですが、恐さがいまひとつ伝わってこないのです。 双子の姉妹が手にしたメトロノ‐ムによって、ふたりは走り始めます。この二人をとおして、走ることの意味と、走らせられる不気味さ が伝わってきます。この脚本の持つ意味を、自分たちなりにしっかり掴んで上演していることは分かりましだが、いまひとつつきぬけて こないのが残念でした。三入で楽しそうに語られるなかに含まれた「恐さ」を、もっと観客にぶつけてほしかったように感じました。 演劇に対する考え方や基本がしっかりしているので、これからは、岡本太郎のいう「爆発だ!」というパワ‐はなになのか考えた劇作 りをしてください。 |