第4部 平成7年度 岩手県大会 岩手女子高校上演
  
    『STEFANIE」』 潮田 忍/作

 


〈あらすじ〉

 北海道の男子高校生「拓也と雅行」の二人が主人公で、二人は東京の女士高校生に憧れている。そこへ
突然神様と称する人物が現れ、その願いをかなえてくれるという。体も女になった二人は、待望の東京の女子
高校に生徒としてワ‐プすることになる。 

 とまどいながらも女子高校でその雰囲気を楽しむ二人だが、周囲とのかかわりを持つうちに、人間関係の陰
の部分が見えてくる。順子が裕子の彼氏に手を出しているとからんでいる会話を耳にする二人。そのそばでは
過食症の女子高生が弁当食い女としてもくもくと食ぺている姿を目にする。そんななかで雅行は順子に好意を
感じ始める。

 放課後、彼氏のことで裕子に呼ぴ出されだ順子が由美とともに裏の崖に現れる。「自分には別な被氏がい
る」と嘘を言って順子はとりつくろう。裕子が去った後、由美は順子に対して「裕子のせいだという遺書を書いて
死のう」と迫る。その様子を見ていた二人は飛ひ出し止める。実は、裕子のいじめのために自殺した朋子が由
美にのりうつっていて、順子を死の世界に引き込もうとしているということがわかる。過食症の女子高生が、最
後に歌うレベッカの「ステファニ‐」も、死んだ友達のことを歌ったものと分かる。

 全体がギャグや笑いで進行するが、憧れていたものとは違ってドロドロしたものに二人はまきこまれていく。
なんとかしようとする二人だが、うまくいかない。そこへ神様が現れ、朋子をあの世へ連れて行く。突然二人は
もとの姿(男子)になり北海道に戻ってしまう。気が付くと時間ももとに戻っている。

 もうすぐ、順子が裕子に呼ぴ出される時間になることに気がつき、二人はその場にかけつけようと空港に向け
て走り出す。


 

  〈講評メモから〉
         装置、新鮮
         台は丈夫‐‐安心して見ていられる
         過食症の女の子の位置

 幕が開いたとき、舞台全体に広がる階段がとても新鮮で、ハッと引き込まれる感じがしました。装置の大きさや安定感
もさることながら、ケコミに透明な波板ビニールを使っていて、新鮮な感じを受けたのです。また、装置の後にスポットライト
が仕込んであり、神様が朋子を連れて行くとき、そのライトで階段全体が白く輝いて浮かぴ上がり、とてもきれいな効果を
出していました。

 ともすれぱ、見映えは立派でも人がその上に乗ったとき歪んだり、不安定になる装置を見ることがあるけれども、この装
置に関してはいっさいそのようなことがなく、十数人のキャストが一度に乗っても「台は丈夫(大丈夫)ーーー安心して見て
いられる」状態でした。省略舞台ということでつくられたものが、手抜きではないかと感じることが多い中で、しっかり作っ
ている装置は安心して見ていることができるものです。幕が下りてから、観客の中で「すごい装置だっだね」と感想を言っ
ているのを耳にしました。

 装置によって、舞台の雰囲気は全く変わってしまいます。例えぱ、装置が全くない舞台(平舞台)に立って演技をしようと
すると、そうとうな演技力を必要とします。椅子一個でも置いてあれぱ演じる方は助かるものです。また、視覚的にも装置
は重要な役割を持ちます。ある世界の雰囲気をそこに感じるからです。

 今回の装置は、階段状の装置でしたので、なにが始まるか分からないけれども、期待させるには充分な雰囲気を感じま
した。また動きも、左右はもちろん、階段を使うことによって奥行きも高さも表現でき、変化のある人物配置ができていたと
思います。ところで、これだけ観客の目を楽しませしっかり作られている装置が、今回の劇でどのような効果をあげていた
のでしょうか。私なりの結論から言えば、「新鮮なすごい装置ではあるけれども、不満を感じた」ということになると思いま
す。

 この劇には様々な場面が出てきます。幕開けの、拓也と雅行が話しているところに神様が登場する場面。東京の女子
高校生の登校風景と教室の場面。そして、裏の崖の場面。回想シーンを見せた後、最初の場面に戻る。

 こうしてみると、各々の場面毎に装置を考え、転換していたのでは大変だということとが分かります。その意味では、な
にか抽象的な装置を考え、その中で全ての場面を表し、観客の想像力で各場面を作っていくという方向は間違っていな
かったと思いますし、この階段状の装置が効果的に感じた場面ももちろんありました。例えぱ、裏の崖の場面では、高さ
を感じたし、二人が隠れる場所も設定してあったので、違和感なく見ることができました。また、前にも書きましたが、神
様が朋子をつれて行くところなどは、とても効果的だったと思います。

 ただ全体的に階段の印象が強すぎて、各々の場面のイメージが湧かないのです。つまり、この劇のための装置、という
よりは、階段状の装置にこの劇を合わせてしまったために、この劇の持つ陰の部分の表現が弱くなってしまったと感じまし
た。

 例えぱ、過食症の女子高生が弁当食い女として登場します。劇の終わりのほうでこの女生徒が「ステファニ‐」を歌うわ
けですが、この女生徒の心の痛みが伝わってこないのです。おそらくこの女生徒は食べ続けなけれぱならないということ
に対するコンプレックスを持っていると思います。そして、食べている様子を周囲のみんなには見られたくないのだと思い
ます。なるべく見られないようにしながら食ぺている姿をみて、観客はその心を感じ取るのだと思いますが、この装置では
どこに座っても丸見えなのです。つまり、過食症の女子高についてハッとすることができないのです。

 そうはいっても、アイデアも含めこれだけの装置をきちんと作れる力はたいしたものです。あとは、各場面の意図するもの
を十分に表すためにはどこをどのようにすればいいのかという「目」を持つことが大切だと思います。

   

※「明と暗」

 幕開けの引き込みとパワ‐がすごい。開幕直後から会場は爆笑の連続でした。また、女性が男子の高校生を演じ、そ
の後神様の力で今度は女子高校生に変わるという演劇の持つ面自さが十分に出ていたと思います。

 さらに、いたるところにギャグや笑いが用意されているこの脚本を、自分たちのものとして充分消化しているため、楽し
みながら劇の中に入っていくことができました。

 拓也と雅行は、男の子が女子高校生に変身したという設定のため、女子高校生が男の言葉を使いながら、突然女の
子の言葉を話すという、言葉の使い分けの面白さも充分出ていました。とにかく、遊ぴごころが充分に生きていた台詞と

 動きでした。神様の扮装も、はんてんを着て頭の後ろにヒョットコの面をつけて登場、奇抜な動作とともに意外性があっ
て観客は心から楽しんでいました。演じている本人たちもとても楽しそうでした。ただ、観客を意識しすぎるためか、正面
を切る演枝が多くて気になりました。しかし演技がふっきれていて声もつきぬけているため、あまり違和感なく観客は舞
台に溶け込み、会場はある雰囲気でつつまれて進行していきました。

 どんどん進行するにしたがって、女子高校生の抱えているドロドロした陰の部分が現れてきます。つまり明るい陽のあ
たる部分に暗い影の部分がどんどん出てくることになるわけです。それを軽いノリで表現する演出はこの脚本にあってい
ると思います。ただその表現の仕方、今回の劇では暗い部分の表し方に少し不満を感じました。例を二つ述べてみます

一、過食症の女子高性のセリフに次のようなものがあります。

 「私は過食症です。食ぺ続けていなけれぱ死んでしまう。食べては吐き、食ぺては吐きます。体がどんどん衰弱してゆ
きます。でも。食ぺねばなりません。とってもおなかがすいているんです。もっと、もっと、食べねばなりません。そう、すべ
てを食ぺ尽くすために。それから私は自閉症で、お父さんは心配症です。今夜のショーは何でしょう。食べ尽くすために、
食ぺ続けるためのディナ‐ショウ。メインディシュは、"退屈"。あっ、レアにしてね。少女たちの血の匂いを大切にしたいの。
食べ尽くすために、食べ続けるためのディナ‐ショウ。イッツ、ショウタイム。」

 舞台の前後がわからないので、このセリフだけでは判断できないかもしれませんが、この少女の悲しみや苦しみ、そして
心の痛みがあるためにこのような言葉になったのだと思います。その心の部分を、深刻に暗く重く表現しているわけであり
ませんが、言葉遊びや語呂合わせにも笑えないものを、観客に感じてもらわなければならないと思うのです。

 ニ、自殺をした朋子が由美にのりうつって、順子に飛ひ降り自殺をさせようという場面から、ガンで苦しんで死んだ妹の話、
そして過食症の女士高生が最後に歌うレベッカの「ステファニ‐」の歌のところまでの十数分くらいのところがよくわからない
のです。

 これは脚本にも責任があるとは思いますが、拓也と雅行の二人のかけ合いや周囲の女子高生の言葉遊ぴの楽しい雰囲
気にグイグイ引っ張られていく部分が際立ってしまい、かんじんの陰の暗い部分が、なにがどうなっているのか、だれがい
まなぜそのようなことを話すのかよくわからいまま進行してしまった感じがしました。

「明と暗」については、劇にかぎらずいろいろなところでも耳にする言葉です。絵画の世界でも「明るい部分を表現するため
には、影がなくてはならない」とか、「ランプの明かりがあるから部屋の暗さがわかる」と言われています。演劇でも同じこと
が言えると思います。六十分という流れの中で「明」の部分をどこでどの程度どのように入れ、そこに暗い部分をどのように
忍びこませていくかという演出が大切になると思います。

 今回の舞台は、「明」の部分はとても良く出ていたと思いますが、「暗」の部分の表現が弱かったのではないかと感じられ
ました。「暗」の部分が初めに出てきたとき、「高校生の暗い部分を重く表現しないで、軽い明るさで包んで示すのはいい」
とメモしましたが、明るさのオブラ‐トが強すぎるため、「暗」の部分が伝わってこないので、しぱらくたってから「暗い部分が
せまってこない」とメモしました。「明と暗」「緩と急」「高と低」などのバランスを六十分のなかにどう配置するか。こういうこと
の演出は本当に難しいと思います。仮に、「明の部分をプラス」「暗の部分をマイナス」で表すとしたなら、今回の舞台は「プ
ラス6からマィナス3」の幅をもった舞台ではなかったでしょうか。わたしの感想としては「ブラス6からマイナス3」の幅で表現
してほしかったように思います。

   ※「見終わったあとに何が残るか」

 今回の劇の幕が下りたとき大きな拍手が起き、そして、会場のあちこちから「面白かった」という声が聞えてきました。脚本
にあるギャグや面白い言葉遊ぴ、拓也と雅行の二人や神様の意外性のある演技に、幕が下りるまで舞台に引きつけられ笑
い楽しんだので、そのような感想が聞えてくるのも当然だと思いました。そこで私は、顔見知りの高校生に「今の劇、どうだっ
た?」と聞いてみました。すると即座に「とっても面白かった」という返事が返ってきました。そこで「なにが面白かった?」と聞く
と、「神様。それに、装置がとっても良かった」と言っていました。

 ここで、すこし厳しい言い方をすれぱ、「面自かった」ということと「良かった」ということは別のことだと思います。もちろん観
客としては、そんた理屈で言葉を選んで表現しているわけではないと思まいが、「面白いわけではないけれど、よかった」と
か「面日かったけれども、良かったとは言えない」場合だってあるわけです。私が質問した生徒の言葉をそのまま受け取ると
したなら、「神様が面白かったし、装置が良かった」、それらを全て含め、今回の舞台は「面白かった」ということになるのでし
ょうか。

 観客全ての人がこの高校生のような感想だかどうかわかりませんが、劇の作り方から、このような感想を持った観客が多い
だろうと思いました。しかし、作者からすれぱそれでは不満が残ると思います。この劇を通してなにを見てほしかったのか具体
的に書いてあるわけではないけれども、題名は「STEFANIE」なのです。その「STEFANIE」、つまり、自殺をした友人のこと
を歌った歌の題名がこの劇の題名になっている意味が、何らかの形で観客の心にひっかかってくれないと、作者としてぱ不満
を持つのではないでしょうか。

 装置や神様よりも、もっと印象に残ってほしいものがこの脚本にあったのではないでしょうか。作者がどのような気持ちで題
名をつけたのか、そこにどんな「おもい」がこめられているのかをくみとって、全体のバランスをもう少し考えてほしかったように
思います。

 「見終わったあとに何が残るか」とメモしましたが、劇を作る側として「見終わったあとに何を残したいのか」ということを考え
た演出が必要だと思います。今回の劇の笑いの中で、少し気になった部分がありました。例えば、神様の演技の中で時々
感じたのですが、舞台にピョコピョコ登場したときパッと観客の方を向いてポ‐ズをとることで観客がドッと笑うのです。幕が下
りる直前にこのような笑いが起こることによって、「STEFANIE」の部分が消えてしまうのです。しかしこれは、神様を演じた
キャストが悪いわけではなく、演出の問題だと思います。 

 以前、ある高校で演劇の練習をしているとき、ある高校ぞ演劇の練習をしているとき、お婆さんをとても上手に演じている生
徒がいました。自分の家のお婆さんを観察し、座り方から歩き方、声の出し方まで熱心に研究して自分なりのお婆さんを作っ
ていたのです。ある場面が一段落したとき、みんなの感想は「お婆さんはうまい」ということで一致しました。けれども私は、
「この場面はお婆さんが主ではないので、演技をおさえるように」と言いました。本人は不服そうでしたし、そのあとの説明も
わかってくれたかどうか怪しいものでしたが、全体のバランスを考えて、観客の目と心をどこに向けるか、それが演出の重要
なポイントのひとつと思います。


  私の感想
 今回の「STEFANIE」は、全国入会で見てから四回目ほどになるでしょうか。楽しさという点では、全国大会舞台に匹敵する
ものを持っていました。それに、装置に対するセンズの良さと、キャストそれぞれの演技力に、観客は幕が下りるまでグイグイ
引っ張られていきました。

 「拓也と雅行」の二人のキャラクターや女子高校で演じているから女性だろうと思いながらも男子高校生としての味のある演
技にぴっくりしたり、その二人が神様によって女子高校生に変身したとき、男子が女子高校生に変わった雰囲気がよく表現さ
れていて、その意外性や演劇の持つ面白さが本当によく出ていたと思います。

 それまで見た「STEFANIE」の神様は、白い衣装を着てひげをはやし、ステッキらしい棒を手にした姿が相場でしたが、今回の
神様は、一人でオカメとピョットコを踊る江戸の踊りからヒントを得たと思われるお祭りのはんてん姿で登場し、それでいて不自
然さを感じさせないキャクタ‐になっていました。

 芝居作りのセンスの良さが、演技や装置に限らず衣装や照明、音響効果にまでよく出ていたとおもいます。ズッコケやギャ
グや言葉遊ぴの面白さに、観客は幕が下りるまでよく笑い、わざわざ足を運んでお金を出しても「見にきて良かった」と思った
のではないでしょうか。だだ私からみれぱ、そのセンスの良さが、楽しい笑える舞台を作ることに重心を置いたために、この劇
の持つ暗い部分がうまく出てこなかっだのではないでしょうか。すぱらしいセンスを持った学校なので、脚本分析や解釈、そし
て観客の目を持った演出についてほんのちょっと気を配ると、すてきな舞台がすぐできるような気がします。

 山を見るとき、ある場所からずっと見ていると、そこから見えている形がその山の形のように思ってしまいます。場所を変えた
り方向を変えて見ると全然別な形に見えることがあるということを、フッと忘れてしまうのです。山全体の形を捕らえようとする
なら、左右はもちろん、反対側からも、上から下から、そして中からも見るようにしないと本物は見えてこないと思います。劇も
同じと思います。「この脚本は面白い、やろう」となったとき「なぜ面白いのか」「なにが面白いのか」「どう面白いのか」「面白い
ほかになにがあるのか」「作者はなぜこの脚本を書いたのか」「題名はどんな意味なのか」などなど、いろいろな角度からこの
脚本を見てほしいと思います。、そして、山を描くとき、「どの方向から」「どの季節や時間で」「どんな表情をした」山を、「なにで
どう描くのか」考えるように、劇を作る場合についても、みんなで話あってください。

 この学校の劇が始まるとき、観客がどっと増えました。そして、幕が下りたらぐっと減ってしまいました。「観客が見たいと思う
劇」を作る力は十分あるので、その上に立って、今後は「観客に見せたい劇」を作ってほしいものと思います。

 

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