第2部 平成六年 宮城県大会 宮城県第三女子高校上演

      
『 おばけリンゴ 』  谷川俊太郎/作 

 

<あらすじ> 

 パパパとマママの会話をもとに進行していく、谷川俊太郎の童話的劇。

 舞台中央奥に、枝を伸ばした自いリンゴの木が一本立っている。やがて、木のそばのペツトから
ワルタ‐という男の子が起きだして、リンゴの木に水をやる。村人たちの木には沢山のリンゴが実る
けれども、ワルタ‐の木にはリンゴがならない。

 ところがある日、リンゴの花が一つだけ咲き、やがて小さなリンゴの実が一つついた。ワルタ‐はせ
っせと世話をすると、そのリンゴはどんどんどんどん大きくなり、ものすごく大きくなった。

 ワルタ‐は、その大きいリンゴを背負って市場に売りに行く。ところがだれも買ってくれず、しまいには
嫌味を言われながらすごすごと家に帰ることになる。

 場所がかわって、王様とその家来の場面。そこに科学研究所長が登場し、八本足の大きな怪獣オク
タゴンについて説明をする。オクタゴンは、いま、どんどんこちらに向かっているという。話によれば、子
供が十五人食い穀されたとか。そこで秘密警察官たちが登場し、オクタゴン退治の相談をする。ものの
本によれば、大きなリンゴを食べさせれぱ良いということになり、秘密警察官たちはワルターのところへ
行き、ワルタ‐を殺して大きなリンゴを持っていってしまう。

 ワルターが死んだことに驚き悲しんでいるパパパとマママのところに、怪獣と仲良しだった少年があら
われ「なんにも悪いことをしていないのに、みんなは、うわさを信じて殺してしまったのだ」と訴える。リン
ゴも怪獣もただ大きかっただけなのです。

 少年が退場すると、死んだと思ったワルタ‐が起き上がる。びっくりするパパパとマママ。いつのまにか、
ワルタ‐はリンゴの木に水をやりはじめる。

 

 

 講評メモから
        ★白い幹のリンゴの木 装置good
        ★
ワルターの個性 good
        ★博士正面切るな、ケライも正面切るな
        童話がよく舞台に表現されている ・ 毒がほしい
              偏見(王張)があってもいい ・ 本をのりこえる

        ★私の感想

※「白い幹のリンゴの木 装置good」

 幕が開いた一場では、舞台中央に白い幹のリンゴの木が一本立っていて、その付近だけ照明でスッと浮
かぴ上がり、童話の雰囲気が感じられる装置と照明になっていました。とかく舞台が広いと、その広い舞台
をどうにか使いこなそうと思って、いろいろなものを並ぺて広い舞台を広く使うことが多いけれども、そうなる
舞台のボィントが定まらず散漫になってしまうことが多いのです。この一場は、リンゴの木とワルタ‐が中心
となるので、照明でボイントを絞った舞台空間の作り方が大変良かったと思います。

 木はどっしりとして安定感があり、枝もほどよく広がり、しっかりした作りになっていました。会場までどうや
って運んできたんだろうと感心していると、場面転換のとき、音もなくスッ‐と引っ込んでしまうのです。しっかり
した装置の前で演じられる舞台は、見ていて安心できるものです。その後に展開される舞台もみごとなもので
した。

 二場の市場の場面では、舞台いっぱい華やかに並ぺられた屋台と大勢の人の歌と踊りで賑やかに始まり
ますが、屋台に並べられだ沢山の品物が、手抜きすることなく作られているのです。みんなで楽しく沢山作っ
たなあと見とれているところヘ、ワルターがリンゴを運んで登場してきます。

 三場の王様の場面では大黒(舞台後ろの黒い幕)を使用し、長短四本の柱を効果的に立てて宮殿の雰囲
気を作っていました。そして、赤いじゅうたんの先には、いちだんと高いところに立派な王様の椅子が置いて
あるのです。

 このように、装畳や照明を調和させながら各場面の状況に合った舞台を作っていて、とにかく見ていて楽し
くあきない舞台になっていました。また、ワルターやパパパとマママの服装が茶系統で統一されていて、舞
台装置や照明とよくマッチし、美術的にも完成度の高いものになっていたと思います。また、今回の劇では暗
転をあまり使わないため、舞台転換がすっきりしていて、とても見やすいものになっていました。

 普通、ある場面から次の場面に変わる時、暗転という方法をまず考えます。いったん舞台を真っ暗にして、
つなぎの音楽(BGM)を流している間に次の場面を準備する。そして、準備ができたところで舞台に照明を入
れるという方法です。ところが、観客はこの暗転という時間によって、それまでの劇の流れを気持ちの中で切
ってしまうことが多いのです。

 今回の劇では、一場から二場に変わるとき舞台を明るくしたままで舞台転換をしていました。BGMは入っ
ていましたが、明るい舞台に数人が登場し、リンゴの木やワルターのベッドを片付けると、市場の屋台を押し
ながらに二場の登場人物が現れ、みるみる賑やかな雰囲気に変わっていく。それを見ているだけで新しい場
面に観客が引き込まれていき、心理的に切れることなくそのまま次の場面に入っていくことができました。

 このように、今回のこの劇の装置・照明・音響に衣装を含めた舞台全体にいて、美術的感覚や処理をよく
えてあり、この脚本の内容にマッチしていたと感心しました。

 
※「ワルターの個性 good」

 この劇を上演した学校は、女子校ということもあり、全員女子が出場していました。普通「男役を女子が演
じると無理が出る」といわれていますが、この劇の場合ワルターをはじめ、パパパ、王様、科学研究所長など、
そう違和感なく見ることができました。もちろん、男役を男子が演じた場合もっと別の雰囲気の舞台になったと
は思いますが、今回、それなりのまとまったものとして見ることができたポイントはニつあると思われます。

 一、童話的劇ということで男の役を女子が演じてもリアルな劇の場合よりずっと遣和感がないという利点があ
ったと思います。リアルな劇の場合、お父さんは男でお母さんは女でないとどうしても受け入れることができな
い、ひっかかる部分があるのに対して、童話の場合、例えぱウサギのお父さんという人物についていえば、お
父さんであるまえにウサギでなけれぱならない。逆にいえぱ、ウサギとして受け入れられれぱ、かならずしも
男子が演じなくとも違和感なく受け入れられる部分があるということになります。

 二、童話なので誇張できるという面があり、そういう部分でキャストの個性の作り万がとてもうまくいったと思い
ます。リアルな劇の場合、話し方や動作に特徴を持たせると、とかく嫌味に感じることが多いのですが、董話に
登場する人物として各キヤストがそれぞれしっかりした特徴を作っており、そのバランスがうまくいっていたこと
で違和感のない童話的な世界になっていました。

 メモには「ワルターの個性goo」と書きましたが、ワルターだけではなく、他のキャストもそれぞれしっかりした
個性を作っ表現していたと思います。

 言葉遊ぴにも似た台詞を、人によって好みがあるとは思いますが、パパパとマママの少し間のぴしたような話
し方で交わされる味は、心地好い響きに聞こえました。


  パパパ 「どうしてさ? マママ」
  マママ 「どうしてもよ、パパパ」
  パパパ 「どうしてどうしても?」
  マママ 「どうしてもどうしても」
  パパパ 「じゃあどうするの?」
  マママ 「どうもしないわ」
  パパパ 「どうしてどうもしないのさ?」
  マママ 「どうしても」
  パパパ 「どうしてどうしても?」
  マママ 「どうしてもどうしても」
  パパパ 「どうしてどうしてもどうして・・・・・・・・・・」
  マママ 「しいっ。(パパパにキスする)私、あなたが好きよ、パパパ」

 また、この劇には歌も登場Uます。ワルターが歌う歌、村人がワルタ‐のリンゴをけなすために歌う歌。市場で
の歌。そして、秘密警察官たちが歌う歌。この歌や言葉遊ぴのような台詞で、この劇の童話的雰囲気の個性が
しっかり作られていました。

 登場人物だけではなく、装置や照明、衣装を含め演出意図が明確で、しっかりしだアンサンブルで作られてい
て、本当によくまとまっていたと思います。


※「博士正面切るな、ケライも正面切るな」

 演劇では「正面切る」という言葉があります。この言葉の意味をわかりやすく言えば「台詞を観客の方に
向かって(正面を向いて)話す」と言うことになるでしょうか。では、なぜこのようなことがs問題となるのでしょ
うか。

 舞台上のある登場人物(A)が、ある相手(B)に対して言葉(セリフ〉を話したとします。その言葉を数百人
の観客に聞こえるようにするために、その人はいろいろ工夫したり練習したりします。多くの観客に自分の
声が届くのは、直接観吝のほうを向いて(正面を向いて)話したときであるのは当然です。しかし、そのよう
な話し方をした場合、観客にとって確かに声は聞こえるでしょうが、それはAがBに話した会話としての言葉
というより、Aが観客に対して直接語りかけた言葉として受け取られることが多く、言葉の内容がどうであれ、
その瞬間にはBが不在という心理的状況になってしまうのです。

 この劇では、(私は博士と書いていますが)科学研究所長が登場して八本足の怪物について説明する場
面では観客に図を使って説明する形をとっていました。確かに科字研究所長のセリフには「王様並びに若き
紳士椒女諸君、およぴPTAの皆様」となっていて、王様と観客に語りかけているように書かれています。し
かし、その場面での図の位量や科学研究所長の説明の様子から、観客に説明しているように感じたので
す。説明の内容はよく分かりましたし、面自いものでした。しかし、その説明の間、私(観客)には王様が見
えなかったのです。舞台にはいたけれどわたしには見えなかったのです。科学研究所長がくしゃみをしたと
き、王様が「科学研究所長!」と声をかけたのですが、そのとき王様と家来はあやとりをしていました。科学研
究所長の説明が面白かったので、そちらに気をとられ、王様と家来がいることを忘れていたのです。王様の
言葉で八ッとし「あゝ王様もいたんだっけ」と気づいたという次第です。

 もちろん演出の考えで、意識的に「正面切る」形をとることもあるわけですが、全体としてうまくまとまってい
ただけに、科学研究所長や家来がフッとみせた「正面切る}場面が気になったので、「博士正面切るな、ケラ
イも正面切るな」とメモしました。

 演劇を見るということは、舞台の上に作られているある世界を、私達観客が客席から見ているという事になり
ます。そして、その世界に登場している人物の生きた姿を見ながら、考えたり、笑ったり、感動したり、涙を流し
たりするわけです。そういう観点からすると「セリフは登場している人物がお互いにかわす生きた言葉」なので、
観客のほうを向いて話すということは、舞台上の世界からすれぱ変な状態になるわけです。しかし、見られるこ
とを前提として作る世界なので、全部の観客に聞こえるように、そして見てもらえるように工夫することも大切で
す。その兼ね合いが難しいところですが、私は「いま舞台で演じられている世界が、生きた世界として自然に感
じられる範囲を越えないこと」が一応の基準ではないかと思っています。「正面切る」ということは、この自然な
感じを壊すことが多いので注意してください。


 ※「童話がよく舞台に表現されている」「毒がほしい」
           「偏見(王張)があってもいい」「本をのりこえる」


 宮城県の大会が終了しだ後、上演した宮城第三女子高校の演劇部員と、数分話し合いました。まず、「童話
の世界がよく舞台に表現されている」というようなことを話したあと、「この舞台そのまま上演しても東北大会で
上位に入ると思うよ」と言ったように記憶しています(実際、東北大会では優秀貫を受賞した)。

  しかし、今回の舞台を見た感想として「毒がほしい」とも言いました。「毒」という言葉の響きはあまりいいもの
ではないけれども、いいかたを変えると「この童話の持つ風刺性がもっと感じられるようにしてほしい」ということ
になるのでょうか。童話だから、明るく楽しければいいという段階で留まるのではなく、そこに「自分たちなりの偏
見(主張)があってもいい」と思うのです。そのときはじめて「自分たちのおばけリンゴ」という劇にまで高まると思
うのです。

 例えば、秘密警察官は誰のための秘密警察官なのかと考えたとき、仮に「王様のための秘密警察官」と解釈
した場合、王様と王様に味方する人以外の人はすぺて敵になるわけですから、そのピストルは、オクタゴンだけ
でなく(その時登場していないけれども)ワルタ‐やパパパやマママにも向けられることになります。そして、もちろ
ん観客にも向けられることになるでしょう。「王様を守る」という目的で観客にピストルを向けたとき、観客は一瞬ハ
ッとし、童話の中の世界として見ていたことが自分のこととして何かを感じることになると思うのです。

 このように、単に舞台で演じられている世界という殻をつき破って、直接観客に鉾先を向けたとき、観客は自分
の世界の「あるもの」と重ね合わせて考えたり感じたりすることができると思います。

 次に「本をのりこえる」ということも書きましたので、このことについて書いてみます。脚本を読んだときその脚本
のなにかにひかれて、上演したいなと思うわけですが、実際に劇として上演した場合、脚本を読んたときの面白さ
はもちろん、それとはまた別の面白さが舞台にでていないのであれば、「舞台より脚本を読んだほうが面白い」と
いうことになります。そのためには、「自分たちの主張を入れて自分たちのおぱけリンゴを作る」ことが大切になっ
てくると思います。これが「本をのりこえる」とか「本をこえる」ということになるわけです。

 今回の舞台は、脚本を読んだときには感じなかったいろいろなことが次々と登場し、宮城第三女子高校の「おば
けリンゴ」になっていました。台本をなぞる形で作るのではなく、台本を越える形で作られた舞台になっていたと思い
ます。


 ※「私の感想」

 この劇を見終わったあと、一冊の絵本を読んだ時のような気持ちになりました。いろいろ予想もしないことがどん
どん起こって、ぐいぐい引き込まれ、そして「あの大きなリンゴは、いったいなんだっだんだろう」とか「みんなは、な
ぜオクタゴンをこわがったんだろう」というようなことが頭をよぎるのです。王様の独善的態度や秘密警察官の存在
を見ていると、フッと背筋が寒くなりました。言葉遊びや明るい音楽、そして歌や踊りという一見楽しそうに展開す
る童話の世界から、そんなことが心にひっかかったまま幕が降りると、案外いつまでも忘れられない舞台のひとつ
として心に残るものです。今回のこの劇もそういうものになりそうです。

 オクタゴンの場面についていえば、あるときは楽しく、あるときは笑いながら、そして死んでしまっだ意味を考えな
がら、その瞬間をスッと通ったとしても、ところで「あのオクタゴンとはなにだったんだろう」と疑問になって心に残り
ます。作者はオクタゴンについて説明していません。そのようなものは、あるとき、本当にあるとき、フット「オクタ
ゴンは王様から見た場合民主々義の象徴に見えたのかも」とか、「現代の機械文明を象徴したものではないのか」
などど思えたりするものです。なんにしても、劇のなかで全部説明され解決されると案外つまらなくなってしまうもの
です。説明されていないからこそ、観客は自分勝手に「あるものに見えてくる」のだと思います。それが、心の中に
「おぱけりンゴが生き続ける」ということなのかもしれません。

 しっかり作られたこの舞台は「自分がもう一度見たい」と思いながら「もっと沢山の人に見せたい」と感じました。
特に「子供たちに見せたいなあ」と思いました。このま高校生だけ見て終りとなるのは、もったいないと思いました。
それほど、「楽しい」けれども「内容のある舞台」であったと感じました。

 このように「しっかりした舞台で内容の深いもの」は、そうそうできるものではありません。なぜなら、そのような

舞台を作るためには、一見矛盾したものを取り込み、こなさなくてはならないからです。

 例えば、二場の市場の場面を準備するとき、大勢の人物が歌を歌いながら次々に屋台を運んで登場します。屋
台を運ぴ入れるタイミングや置く場所をしっかり計算し、それを守って各キャストは行動しなければならない。しかも、
明るい雰囲気を作りながら歌を歌って、時にはダンスをしながらパワ‐ある二場の雰囲気を作っていく。隣の人との
人間関係や位置を計りながら一度にいくつものことをこなさなくてはならないということは、想像以上に大変なことな
のです。

 決められたこと(形)を守ろうとすると、雰囲気(心〉が出ない。雰囲気(心)を作ろうとすると、決められたこと(形)
がおろそかになる。これを乗り越えるためには、そうとうな練習が必要になります。あたりまえに、サラッとやってい
るように見えるまで練習しなければならないわけです。今回の舞台はこのへんを乗り越えていました。とかく演劇の
中で歌われる歌は下手なことが多いのですが、この劇で歌われた歌は、歌詞がはっきり聞き取れたし、セリフとの
バランスも良かったと思います。

 完成度の高い、しかも、楽しくあきない舞台でした。

 もう1度、見たいなあ。                                              第2部 了

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