第11部 講評メモの解説 

 


※ 「虚構の世界で真実を表現する」


 私の友人で、「テレピのドラマは見ない」と言う人がいます。理由を聞いてみると「作りもので嘘くさい」
からと言うのです。「演劇は?」と聞くと、「わざわざ足を運んでまでは見ようと思わない」ということでした。
そこで、「小説は?」と聞くと、一瞬困った顔をして「推理小説は面白いから読む」ということでした。彼の
理屈からえぱ、推理小説はパズル的要素があるからということでした。

 彼の言葉を借りるとすれぱ、「演劇は現実の世界とは異なる作りもの」ということになるのでしょうか。
しかし、本物そのものだけに価値があるわけではありません。小説、音楽、絵画、写真、能、舞踊、その
他芸術といわれるものの多くは作りものです。能代北高校の「君がいたから」のところで、土門拳記念
館の写真について書きましたが、写真を見て本当の写真良さを再発見する場合だってあるわけです。

 演劇についても同しことが言えると思います。現実の生活の中であまり気にもとめずに見過ごしてい
るょうなことを、舞台で再現してもらうことで、考えたり再発見することがずいぶんあります。また、そのよ
うな社会的なテーマではなくても、笑ったり涙を流したり、怒ったり感動したりすることだってあるのです。

 実際の生活では、なにかについて考えたり議論したり、ハッとするようなことというのは、1年に数回あ
るでしょうか。高校演劇は、六十分という枠の中にそれらを盛り込み、意図的に作り上げた世界といって
もいいでしょう。ですから、現実の世の中で起こっていること(真実)を、凝縮して再構成することで、作り
ものであるからこそ本物よりも本物らしい真実として示すことができるのが演劇ではないでしょうか。しか
し、虚構という作りものの世界は、作りものだからどうでもいいというわけではありません。作られた世界
そのものとして、矛盾のないように完結した世界でなけれぱならないと思います。

チャッブリンの映画が大うけにうけた頃、アメリカのある地方でチャップリンの仮装大会が開かれたそうで
す。その時、茶目っ気を出した本物のチャッブリンが名前をかくして出場したら三位になったということでし
だ。本物そのものよりも、より本物らしくデフォルメされたものが一位に選ぱれたのです。もちろん、そこに
嘘ややり過ぎを感しると一位にはなれないと思いますが、それにしても本物のチャップリンが三位という
のはおもしろいですね。このような話を、いつか友人と話してみようと思っています。

 


※「おもちやのピストルを、劇の中で『おもちやのピストル』

   として使うのは難しい」

 観客は、「演劇は作りものである」ということをわかっていて見てくれます。だから、舞台でなにが起こ
ってもその様子をじっと見ていてくれます。これは、舞台と観客の間の「暗黙の約束事」といえるものだ
と思いますが、この「約束事」は少しやっかいな部分もあるのです。

例えぱ、短刀で相手を刺す場面があったとします。路上でこんなことがあれぱ、それを見ている人達は
驚き騒ぎ、逃げ出したり警察に連絡したりするでしょう。けれども、劇の中でこのような場面があっても、
観客は作りものだとわかっているので席に座ったままじっとその様子を見ています。しかし、そこで使わ
れている短刀がボ‐ル紙で作ったへナヘナしたものなら観客は満足しません。「あんな短刀で人を刺せ
るはずがない」と思うからです。そうかといって、本物を使えぱいいというわけでもないのです。もし本物
を使っていることがわかると、「演劇は作り物だから本当に刺すはずがない。しかし、間違って刺したらど
うしよう」と心配のになるです。本物でも駄自、まったくの嘘でも駄目、難しいものですね。でも、その間
にあるのが演劇だと私は思っています。

 コッブを持ってくれぱ、水が入っていなくても入っているものとして観客は見てくれます。女の子が学生
服を着て登場すれぱ、男の子として見ます。そういう「約束事」からすれぱ、女の子の服装をしている男
子の役を女の子が演している場合などは、よほどうまくやらないと観客は混乱してまいます。そのことか
らいえぱ、「おもちやのピストルを、劇の中で『おもちやのピストル』として使うのは難しい」ということにな
ります。観客と舞台との間に成り立っている「暗黙の約束事」について、もう少しつっこんで考えてみたい
と思っています。

 


※「うまくやろうとするな、芝居をするな、芝居を作るな。演じるな。」

 とても残念なことですが、過日、涯美清さんが亡くなりました。このことについて、「『田所康雄が渥美
清を演じ、渥美清が寅さんを演じていた』と井上ひさしさんが話していた」というようなことが新聞に載っ
ていました。それまで私は、本名が田所康雄というこを知りませんでした。「男はつらいよ」で寅さんを見
ているときは、渥美清という名前さえ忘れて「寅さん」として見ていました。

 私にとってのイメージは、「渥美清さんが寅さんを演じている」というよりは、「寅さんを演じているのが
渥美清さん」という感じでした。ぴったりはまると、映画の人物が現実の人物より優先してしまうように錯
覚するんですね。私は高校演劇め舞台に「寅さんのようにやってくれ」というつもりはありません。しかし、
A君が太郎という役で舞台に上がるとき、「うまくやろう」という気持があると、「生きている太郎」の姿よ
りも「うまくやろうとしているA君」が感じられるのです。「うまくやろうする、芝居をする、作る、演じる」とい
うことぱの主語はA君です。A君がこのような意識で舞台に上がっているとき、観客に媚ぴた姿が出てき
て、一瞬、太郎でなくなるのです。 それよりも、うまいとか下手だとかいうものに関係なく、その世界の
中で生きていてほしいのです。その世果め中で呼吸しているひとりの人物として、力を抜いて楽しんで、
その時間を伸び伸びと過ごしてほしいのです。変に節回しをつけたセリフよりも、とつとつとした話し方に
人間味を感じることがあります。そういう意味で、「うまくやろうとするな、芝居をするな、作るな、演じる
な」という言い方をすることがあります。ある学校にいた時のことです。

 ブラスバンド部の生徒が相談に来ました。話によると、「近く定期演奏会があり、その時、その生徒がソ
ロで演奏する場面があるけれども、当日あがってしまってミスをしそうだ」というのです。そこで、「本番で
ドキドキしたり、あがるのはあたりまえ。でもそこに、うまいところを見せたいとか、格好良くみせたいとい
うような気持がはたらくと、変に緊張していつものように演奏できないことがあると思うので、ミスをするか
どうか心配するよりも、その瞬間の音楽を観客と一緒に楽しむことが大切じゃないの」というようなことを
話しました。

 数日後、廊下ですれちがったとき、「先生、定演バッチリ」と、Vサインをしてくれました。

 舞台は、力を抜いて伸ぴ伸ぴと楽しくやろう。

                                                                                                                      

 


※「納得してやってほしい」
 「セリフとセリフの間に詰まっているものを大切にしてほしい」

 
 ある劇の脚本に、次のような場面があったとします。

 ここはBの家、そこにAがやってきて

A(汗をふきながら)やあ、こんにちは。

B まあ、遠いところ良くいらっしやいました。

 これだけのセリフは、別にどうってことなく口に出して言うことができるわけですが、だからといってただ
言えぱよいというものでもありません。よくよく読むと、疑問が出てきます。

・汗をふきながら−−−暑いのかな? 季節はいつだろう。走って来たのかな? とすれば、どんな用事で
 来たのかな? それとも、汗かきなんだろうか? 荷物を背負ってきたのかな?

・こんにちは‐−−親しいのかな? それとも、儀礼的な挨拶かな? 多分、昼だろう。

・まあ−−−突然で驚いているのかな? この人の口癖かもしれないぞ。それとも、汗を見て言っ てい
るのかな?

・遠いところ−−どのくらい遠いのかな? 本当に遠いのだろうか? お世辞かもしれないぞ。

・良くいらっしやいました−‐‐歓迎しているのかな? 儀礼的な挨拶かもしれないぞ。いやいや、本当に
心から迎えているのかもしれない。あるいは、心の中で「なんで今頃」と思っているかもしれないぞ。

 このような疑問がはっきりしないのに、安易にセリフを話したとすれぱ、それは嘘になります。

 ある高校で演劇部の練習をみていた時のことです。この日は立ちに入ってある程度練習が進み、コ‐ス
や位置も決まり、細かい動きに入ろうと言うときでした。母親役をやっていたMさんが、戸口から入ってきて
椅子に座りました。その時私は「ストッブ」と言ってMさんに聞きました。

私 どうして座ったんですか?

M ト書きに「座る」と書いてあるから。

私 ダメ! もう一度。あんたが座っちやダメなの。

M ・・・・?

 もう一度やらせて、またダメを出す。

私 あんたの年はいくつ?

M 十六才。

私 あんたの年はいくつ?

M ………?あっ、お母さんは四十八才。

私 はい、ではもう一度。

 またやりなおして、ダメを出す。

私 どうして座ったの?

M (脚本に書いてあるからとは言えないので、しぱらく考えて)疲れているから。

私 どうして?

M いろいろ悩んでいて。

私 いつから?

M ここに来るずっと前から。

私 ここに来るずっと前からでしょう。はい、もう一度。

 「わかったつもり」でやるのではなく、「納得して、わかって」やってほしいのです。今、自分が演じようとし
ている人物の話す言葉や動作が書いてあるからといって、気持や内容を上辺だけで分かったつもりで「脚
本をなぞる」ように表現したのでは、その人物に対して失礼になります。自分として納得できるまで深く追
求し、責任もってセリフの一言を口にしてください。セリフをただ単に読むのではなく「セリフとセリフの間に
詰まっているものを大切にして、セリフの裏の心情を大切にしてほしい」と思います。

 自分が今やろうとしていることを「しかたなくやる」「なんとなくやる」のではなく、「納得してやる」ということ
は、演劇に限らず普段の生活の中でも大切なことだと思います。高校生であれぱ、同じ勉強をするのでも、
目的をもって自分で納得してやる場合のほうが、苦しくてもやりがいがあると思います。

 人生にしても同じかもしれませんね。


 


※「ショパンのノークターン、越える舞台でないと負けてしまう」

 ある高校が上演した劇の中で、効果音楽としてショパンのノ‐クターンが使われていました。その場面の
雰囲気を出そうとして使ったのでしょうが、私は「合わない」と思いました。別な表現をするなら「負けてい
る」と感じたのです。

 普段よく聞く音楽は、その曲の持つイメ‐ジが強いので「演劇には使うな」と言われます。どんな場所であ
ろうと「禁じられた遊ぴ」の音楽を聞くと、私は映画のシ‐ンを思い浮かぺてしまいます。この曲が劇の中で
使われたとすれぱ、劇の内容と映画のシーンが私の頭の中で争うことになります。そして大抵の場合は、
演劇が負けてしまうのです。

 もちろん、例外もあります。平成六年度の全国大会で最優秀になった福島県立湯本高校の「俺たちの甲
子園」では、「マイ・ウエイ」という曲が使わわでいました。よく結婚式の披露宴などで演奏それる曲ですが
ギターの伴奏で歌われる男声の独唱は、この舞台にピッタリです。登場人物の心情を、この曲がよく盛り上
げていたと感じました。それ以釆この曲を聞くと、私は「俺たちの甲子園」の舞台を思い出すのです。舞台が
その曲に負けないだけの力を持っていたからだと思います。

 劇と音楽に限らず舞台という所はいろいろなものが競い合っている場でもあると思います。ずっと以前のこ
とですが、岩手県の高校総合文化祭の総合開会式を担当していたときのことです。舞台美術の担当者が、
縦四メ‐トル・横三メートルの顔の形をした装置を運んできたのです。事前に話には聞いていたのですが、実
物を見て、その迫力にはぴっくりしました。これを舞台中央に吊したのでは、どんな出演者も負けてしまいま
す。ずっと下手寄りの高い位置に吊すことにしました。リハーサルをしてみると、それでもその顔に負けてしま
う出し物もありました。その場合は、やむをえず舞台を暗くして出演者にサスをあてることにしました。

 観客の視線や心は、その瞬間瞬間、自由気ままに方向を変えます。見てほしいところを見てくれるとはかぎ
りません。聞いてほしいことをしっかり聞いてくれるとはかぎりません。舞台全体のあらゆるもののバランスを
考えて、見てほしいもの聞いてほしいものに観客の視線や心がいくように、作る側は配慮しなけれぱならない
と思います。

 生け花では「花を生ける花器の選ぴ方が大切だ」という話を聞いたことがあります。「花器は花と調和してい
ながら花を越えずに、花を大きく生かすものでなくてはいけない」というのです。花と花器はお互い競いあいな
がら(高めあいながら)全体としてまとまったものになり、花だけのときとは比ぺものにならない世界をつくると
いうのです。

 音楽や照明を入れることで、演劇の世界が大きく調和のとれたものになるように、そのバうンス感覚を大切
にしてください。また、このような見方はキャストの間にも言えることだと思います。今その瞬間、観客の視線
や意識が人物Aに向かってほしいのであれぱ、その他の登場人物は、それを助けるような意識で行動しなけ
ればならないことになります。そういう意味で考えると、「演劇はバランス感覚が大切」ということになります。

 演劇に限らず、いろいろなものをこの「バランス感覚」で見ると、面白い見方ができそうです。写真・絵画・彫
刻・書道のようなものから、音楽・小説・自然界、そして学問や政治や人間の思考まで幅を広げてみると、な
にかが見えてくるかもしれませんね。

                                                  

 


 ※「『演劇は総合芸術』というが、芸術を見せずに人を見せよう」

 演劇には、舞台を支える「装置、照明、音響、衣装、小道具」というスタッフがあるため「演劇は総合芸術で
ある」と言われることがあります。確かにそれなりにしっかりしたものを作らなけれぱ、舞台の上に、ある世界
を作ることができません。

 スタッフの担当になったとすれぱ、それなりに工夫をして、最高のものを表現しようと努力するのはあたりま
えです。そのとき、舞台監督が中心になって、お互いのバランスを考えながら、ひとつひとつ丁寧に吟味して
ください。ある部分の主張が強すぎると、他とのバランスを壊すしてしまいます。

 ある高校の創作劇で、葉たばこ作業の場面がありました。たくさんの葉たぱこが、とても丁寧に作ってあり、
舞台の中央に盛り上げてあったのです。それだけで圧倒され、作業をする女の人達が見えてこないのです。
よく考えると、色が鮮やかすぎて、キャストの衣装を飲みこんでしまっているのです。また、音響効果の音が
強すぎて、セリフがよく聞き取れないということもあります。

 ある部分の主張が強すぎると、逆に損をする結果になるので、そのバランス感覚を大事にしてください。特
にも、スタッフは、登場人物を生き生きと見せるように配慮し、人物を越えないようにしてください。そのような
意味で、「芸術を見せずに人を見せよう」という言葉を使うことがあります。

 では、演劇は「人を見せるためにやるのですか」と聞かれた場合、「イエス」と返事をしながらも、心のどこか
でひっかかるところがあります。絵本に例をとるなら、主人公の行動を中心にストーリーが展開し、それに一喜
一憂しながらも、そのことだけを味わっているのではないと思います。絵本の持つ世界が生きているから、人
物も生きて動けるのだと思うのです。その世界を丸ごと受け入れ、それに浸って楽しんでいるから、その世界
の中で遊べるのだと思います。

 「人を見せること」を越えて、演劇の持つ「時間と空間を持った空気を感じてもらう」こと。別な言い方をすれぱ、
六十分間、舞台の世界と一緒に遊んでもらうことが最も重要なことかもしれません。

 


 ※「『うまい』や『うける』ことと、『いい劇』との関係を考えること」
   「笑いのレベルを考えてほしい」
 

 私が審査を担当した、ある地区の発表会で上演されたN高校の舞台は、観客の反応がよく、大変「うけた」
ものになりましたが、その地区の代表に選ぱれませんでした。

 大会が終わった後、N高校の演劇部員がやってきて、「私達の劇が、あんなにうけたのに、なぜ代表になら
なかったのですか?」と質問したのです。話を聞くと「観客に見てもらえるように、楽しんでもらえるように工夫し
て舞台を作った」ということでした。

 自分達で脚本を創作し、配役を工夫し、衣裳やメイクアップも奇抜なもので意表をついていました。装置や
照明も凝っていて、あるレベル以上の技量を感じさせるものでした。舞台は、爆笑つぐ爆笑で観客は六十分
間充分楽しんだと思われました。

 そのことはよくわかったのですが、私達審査員では、その「笑いと、笑いの質」が問題になったのです。そ
の劇ではニ人の泥棒が登場するのですが、その泥棒は劇の内容とほとんど関係がないのです。時々出てき
て、ズッコケをしたり、頭を叩いたりしながら、当時テレビではやっているコントのコンビを舞台で再現し、観客
を湧かせていたのです。

 N高校の演劇部員に、泥棒を登場させた理由をたずねると、「面白いから」という答えが返ってきました。あ
る生徒は、「先生は面白くなかったんですか?」と、逆に質問してくるのです。

 このことについて、じっくり話をする時間がなかったので、「うける」ということと「いい劇」との関係について、
要点を話しましたが、わかってもらえたかどうか不明でした。

 劇を作るとき、観客に見てもらえるように考えて作ることが大切です。退屈したり、つまらなかったりすると、
見てくれません。だからといって、劇の内容と関係のない、「笑いをとるため」や「うけをねらう」ための工夫は、
本来見てほしいはずのテーマを、薄めたり壊したりしてしまうことが多いのです。心の底から共感する笑いや
涙と、表面的なものとの違いを意識してほしいと思っています。

 確かに、「演劇は、見ているその時間が楽しけれぱいいのではないか」という意見もあります。しかし、「そ
の楽しさが、現実となんら係わりをもたない」ということよりは、「現実に戻ったとき、フッと、あれはなんだった
ろうと考えさせるものであってほしい」と思っています。

 観客の言う「面白かった」という裏には、いろいろな意味が含まれています。作るほうとしては、「なにが、
どう面白かったのか」分析し、本当に見てほしいものの質と内容について考えてください。いろいろ舞台を沢
山見て、仲間と意見交換してください。そして、見方についての幅を広げ、それを昨るときに生かしてほしいと
思います。

 


  ※「形から心ヘ」「心から形ヘ」

 だいぷ以前のことですが、ある高校の舞台で次のような場面がありました。教室の中で十数人の女子高校
生がそれぞれおしゃべりをしているところヘ、一人のおじさん風の男が登場し、だれにということなしに「すみ
ません」と声をかけるのです。すると生徒が一斉にその男のほうを向いて「はい」と返事をするのです。少し
誇張して表現しましたが、このような感じの場面が随所にみられたのです。全体の統制が取れていて「よく
練習しているな」と感じましたが、やはり変なんです。ずっと離れていて、「すみません」という声が聞こえな
いだろうと思われる生徒まで、しかも声をそろえて「はい」というのはありえないことなんです。

  舞台としての形は出来ているけれども、キャスト一人ひとりの「個」がないのです。集団演技としての演出は
感じられても「心」が感じられないのです。「そういう舞台にしたのだ」といえぱそれまでですが、演じている生
徒は変だと感じなかったのでしょうか。でも、見ている観客の多くは満足したのでしょう。盛大なな拍手をして
いました。

 ある「形を作り」整えると、全体がすっきりして見やすいものになります。さらに無駄を削ぎ落とし、全体のバ
ランスを考えると、いっそうまとまったものになっていくと思います。しかし、その形は「心を伸ぱし、心を生か
す」ものでなけれぱならないと思うのです。

 音楽に例をとってみるまでもなく、西洋音階、日本音階、琉球民謡の音階などそれぞれ独特の音階の中
で、しかも、音色や音程がある意味で制限された楽器を使いながら、「心」を表現しているのが音楽だと思い
ます。

 形の持つ「すぱらしさ、美しさ」を追求するなかで、「その心を感じながら自分の心を表現する」ことが大切だ
と思っています。また、形から入り「どうしてその形になったのか考える」ことで、心のある部分が見えてくる
場合も多いと思っています。そんなことを考えているうちに、「形から心ヘ」という言葉がどっかに引っかかっ
て残るようになりました。

 そうしているうちに、「形はどうしてその形として存在するのか」気になりだしました。道具であれぱ「使いや
すさ」という機能面から形ができてくると思いますし、植物であれぱ、ある環境の中で「生きていくための手
段」としてその形になったのだと考えられます。では、演劇の舞台における、目に見える形(目に見えない形
も含めて)は、なにを根拠に作られるのでしょうか。それは「なにかを表現しようとする心」からきているのでは
ないかと最近感じています。そのような見方をしていくと、「形は作るのではなく、生まれてくるのだ」というい
い方のほうが適切なように思います。

 また、演劇の「表現しようとする心」というものは、単に「あるものを作って表現する」というものはではなく、
「想像し、創造する」ことで生じてくる「生き方」そのものではないかと感じています。

 こういうようなことを考えていると、「心」という言葉は、ひらがなで「こころ」と表現したほうがなぜかぴったり
するような気になります。

 演劇は、舞台という制約された空間に、脚本に書かれた文字を基に形あるものに作り上げていく作業と考
えるとき、その種(脚本)の性質を理解しながら育て、花を咲かせる共同作業なのです。花のこころを理解し
ながら、よりよい舞台をつくってください。

 

 
 ※ 「演劇は人を変える」「演劇は人を育てる」

 私が三十数年の間高校演劇を続けてきた理由は、「演劇が好きだからというのではない」のです。私が見
る演劇は、高校演劇が主で、その他の演劇は時々見ることがあるという程度です。ですから、ここまで続け
てきた理由を言うとすれぱ、「演劇をしている高校生を見ているのか好きだから」ということになると思います。

 演劇と本気になって取り組んでいる生徒は、三年の間に大きく成長するんです。ただ単に、演劇用語を沢
山覚えたとか、技術的に成長したというのではなく、自分というものを確実に作っていくのが見えるのです。
演劇の場合複数の人数で劇を作っていくわけですが、そのような場合での「ものをつくる」ということは、「自
分を創っていく」ことと深い係わりがあるんですね。

 キャスト・スタツフいずれの場合でも、自分の持っている力を総動員して数ケ月活動することになります。
演出や舞台監督の言うとおりやっていればいいというものでもありません。自分が精一杯やってもダメを出
され、考え・悩み・相談しながらまとめていく作業をとおして大きく変るのだと思います。

 そのような意味で、演劇活動は、「自分さがし」「自己発見」につながり「自己成長」に結ぴつくことになると
私はみています。そのような生徒の姿を見ながら、ともに活動できる喜ぴがあったからここまで続けてこれた
のだと思っています。

 演劇部の生徒に、感謝感謝。

                                              

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